私が父になったとき
written by 匿名
私たち夫婦にとって「子どもをもつ」という選択肢がにわかに現実味を帯びたのは、戸籍変更をしたFtMの夫とその妻が第三者からの精子提供でもうけた子が、最高裁で嫡出子と認定されたニュースを見てからだった。
盲目的に突き進んだわけではない。子をもつことについてあれこれ考えた。
何故子どもがほしいのか。私は父になれるのか。
けれどいくら考えてみても、答えなど出てこなかった。
悶々と悩んだ挙げ句私の頭に浮かんだのは、世の男女の夫婦のことだった。彼らが子どもを望むのは、ただただ単純に、子どもがほしいからではないか。
どんな理由も後付けでしかないと思ったとき、私も父になることに挑戦しようと決めた。
妻と相談し、私の兄弟に精子提供への協力を頼んだところ、快く承知してくれた。母にもそのつもりでいることを伝えると、歓迎してくれた。
当初は非配偶者間人工授精(AID)を行っているクリニックに相談しようとしていたが、全国的に数が少なく、私たちが住んでいる地域周辺では該当するクリニックが見つからなかった。FtMとその妻とのAIDで実績のある東京の病院に問い合わせたが、身内からの精子提供は受け付けていないという。そこで別な身内からの精子提供の実績があるクリニックに相談したが、夫がFtMである場合は不可という一言だった。
妻は諦めずインターネットで情報収集を続け、シリンジ法というものを見つけた。個包装になっている、注射器の針がついていないもの(シリンジ)を利用して、医療機関によらず自分たちの手で妊娠を目指す方法だ。
近くに頼れる医療機関がない私たちにはこの方法しかないと思った。
改めてその方法で兄弟に承諾を得た。
妻は基礎体温をつけていて、妊娠しやすい日で皆の予定を合わせ、シリンジ法に挑戦した。
すぐに授かることはないだろうと思っていたのだが、一度目の挑戦後から妊娠の兆候があり、市販の検査薬で陽性の反応が出た。
ちょうどその頃、見知らぬドナーからの精子提供により生まれたという当事者のニュースが新聞に取り上げられた。
父の顔を知らないことで悩み、苦しい思いをしたという話が掲載されていた。
賛成してくれていた母が、このニュースを見て少し否定的な反応に変わっていた。
妻が妊娠したと伝えたときの母の複雑な表情が今でも忘れられない。
私が最初から男として産まれていたら、私たちのもとに来てくれた新しい生命に対してそんな顔をしなかっただろうと思うと、自分が男に生まれなかったことを腹の底から悔しく思った。
多分これまでの私の人生で、最も悔しかった出来事だった。
初めのうちは私自身も父になることを不安に思うこともあったが、妻と二人で出産に関する本を読んだり、エコー画像を見たり、毎日お腹の中の子に話しかけたりしているうちに、ただただ会える日が待ち遠しくなっていった。
父になれるのかという不安は吹き飛んだ。
父とは、なろうとしてなるものではないのだと知った。
十ヶ月を三人で歩み、子どもがこの世に生まれてきたとき、その泣き声を聞いて、妻と私は自然と涙がこぼれた。
生命とはそういうものだった。
母も孫を目の当たりにしてもやもやが吹き飛んだのか、その後はとても可愛がってくれている。
ただ、疎遠になった兄弟もいる。子どもはおもちゃじゃないというようなことを言っていたらしい。
もちろんそんなつもりは毛頭ないが、それはこれからの私たち家族の姿を見せるしかないと思っている。
この先も何があるかはわからない。
しかし誰が何と言おうと、私はこの子の父で、私はこの子を愛している。
この子がいつか大きくなって自分の道を歩き出すまで、私は伸ばされた小さな手を握るのだ。